遊山箱と徳島

遊山箱と徳島

遊山箱と徳島

徳島と木工

 徳島市は、四国を代表する河川である四国三郎・吉野川の河口部に発達した都市です。吉野川の河口部は1.3kmもの川幅で、瀬戸内海や紀伊水道に隣接ていることから、古くから水運が発達していました。その水運を生かし、阿波国(現在の徳島県)は、阿波藍や穀物、塩などの海産物のほかに徳島県南部の木材を大量に積み出しており、木材やその加工品の産地でした。また、この水運の利便性から城山(徳島中央公園内にある山)に「徳島城」を築き、周りに武家屋敷や商人、職人を住まわせた町(現在の八百屋町・大工町・紺屋町・鍛冶屋町など)が整備され、城下町が誕生しました。また、当時の徳島藩には阿波水軍があり城下町は軍艦を有する軍港として栄え、大勢の船乗りや船大工が住んでいました。船大工たちは、本業とは別に船の残材を使って調理器具や炭箱、ちり取りなどの生活用品を作り始めますが、これが徳島の木工業の起源ではないかと考えられます。廃藩によって多くの船大工たち去りましたが、中には自らの技術を活かして、日用雑貨や針箱・箪笥・障子や雨戸等の建具・下駄などの製作をするようになりました。その後、美しい塗装を施した鏡台などの家具、黒檀・紫檀・鉄刀木などの美しい木目を生かし唐木細工が施された仏壇、精密で且つ堅牢な建具と様々な木工製品へと展開していきます。

遊山箱とは

 今では徳島の伝統工芸品のイメージですが、元々は子供たちが野山や海で遊ぶ時に使った三段重ねの木製お弁当箱です。三段重ねのお重がすっぽり収まる外箱に取手や装飾がされた形のものが多く、古くは江戸時代から、徳島市では昭和半ばまで使用されたといいます。旧暦の3月3日の桃の節句には女の子だけでなく男の子も遊山箱を持って野山や海で遊ぶ(遊山する)風習がありました。遊山箱には巻き寿司やお煮しめ、ういろうといったものが詰められ、遊山の途中で家族や友達と一緒に食事を楽しんでいました。そこに遊山箱があることはとても大切なことだったのでしょう。

これからの遊山箱

 今では遊山箱と聞かれても、徳島県外の人だけでなく、地元の人でも上手く説明できる人は少ないのではないでしょうか?遊山箱を持って遊山するといった風習は今では薄れてしまい、いつしか遊山箱は私たちの生活から消えてしまいました。しかし、現在では徳島の伝統工芸品としてだけでなく、遊山箱に施された木細工の技術力と、バラエティに富んだデザインから、インテリアとして人気があります。昔から培ってきた徳島の木工技術で作られる遊山箱は精巧なつくりで美しい装飾が施されています。杢貼り(突板貼り)や光沢のある塗装がその例です。いにしえより伝えられてきた遊山箱の文化と徳島の木工という高度な技術は日本だけでなく、世界中に注目されています。

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